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  ▼スイスの有名人達

 スイスに住んでいた有名人はたくさん聞きます。「喜劇王チャーリー・チャップリン」「永遠の妖精オードリー・ヘップバーン」「理論物理学者アルベルト・アインシュタイン」「F1の皇帝ミヒャエル・シューマッハ」「テニスの女王、マルティナ・ヒンギス」などなど。
 それにくらべ、スイスが生んだ有名人と言うのはあまり聞かない。そこで、ここで何人かの英雄達をご紹介しよう。

「ジャン=ジャック・ルソー」
父は時計職人、母は牧師の娘という家庭で生まれたルソー。彼が生まれると同時に母は死に、父はルソーがわずか10歳のときに行方をくらました。両親を失ったルソーは、幼くして生まれた家を離れ、母方の親戚の家で16歳まで暮らします。その間、版画師のところへ弟子入りするが、あまりの厳しさに音をあげ、逃げるようにして故郷であるジュネーブを離れます。
  彼の名が知られ始めたのは1750年、ルソーが38歳の時です。ディジョンアカデミーへの懸賞論文へ執筆した『学問芸術論』が見事に入選。これ以後、ルソーからたくさんの作品が生まれはじめます。分野も多岐にわたり、音楽作品も多く残しているが、こちらの作品はあまり有名なものは残っていません。さすがに音楽のセンスまでは至らなかったようです。この際に書かれた著書の一つ「新エロイーズ」は、後にフランス中にスイスブームを起こすほどの大ヒットを生み、称賛されました。 しかし、彼の自己中心的な考えや性格は、必ずしも好かれていたわけではありませんでした。彼に悲劇が起きるのは1762年のことです。『社会契約論』を発表しますが、この思想が社会に反するもの、乱すものとして禁書になったばかりか、ルソー自身にも逮捕状がでてしまいました。イギリスやスイス、各地を亡命しながらそれでも作品を発表し続けたルソー。最後に手がけた『孤独な散歩者の夢想』を完成させることなく、ルソーはこの世から去りました。彼の革命的ともいえる思想は、多くの人に愛されると同時に忌みもなく嫌われました。彼の手がけた著書は、全国の思想家、作家、哲学者、政治家に至るまで、実に様々な人に影響を与えました。

「ヨハンナ・シュピリ」
  この名を知っている人はスイス好きか、アニメ『アルプスの少女ハイジ』のファンかになる。彼女こそ、ハイジを生み出しスイスの象徴ともなっている方であります。スイスのチューリッヒに生まれた彼女は、小さい頃から読書が好きで、特にゲーテやドロステヒュルスホフなどの作品を好んだといわれています。彼女の名が知られ始めたのは1852年頃のこと。弁護士のヨハン・ベルンハント・シュピリと恋に落ち、またたくまに結婚生活を始めました。この頃より、彼女は小説の執筆にあたりますが、田舎町で生まれた彼女にとって都会での生活はとてもついてゆけず、鬱病を患ってしまいます。その三年後、第一子であるベルンハルト・ディートヘルムを出産。そして1871年頃、処女作「フローニーの墓の上の一葉」を発表し、その売上金は戦争の被害者を助ける支援活動団体に寄付しました。これ以後、ヨハンナは作品を匿名で次々と発表していきます。
  『アルプスの少女ハイジ』の原題は『ハイジの修行時代、遍歴時代』というのをご存知でしょうか? なんとも可愛い気のないタイトルですね。この作品は1880年に匿名で発表されましたが、作者の名前を知りたいという反響が多く寄せられました。これに応えるかのようにハイジの修行時代の続編にあたる『ハイジ、覚えたことを役に立てる』を執筆し、翌年に名前を公表しての出版となりました。この作品により、ヨハンナの名は一気にスイス中に知られることになりました。また、彼女の作品には宗教色の強いものが多く、ハイジにも少しばかりだが影響しています。
  彼女に悲劇がおきたのは、ハイジが生まれてからわずか4年後の出来事。一人息子であるディートヘルムが結核により他界し、それを追うようにして愛する夫が過労で他界してしまいます。一度に2人の最愛の家族をなくしたヨハンナでしたが、決して屈しず、作品を書き続けました。そして1901年、一人静かに息をひきとりました。享年74歳。彼女の作品は、ハイジの他にもまだまだ素晴らしいものがありますが、邦訳がいまだにされていないのが残念でなりません。彼女はいまでもスイス国民に愛され続けていて、スイスの切手や硬貨などにはその肖像画が使用されています。

「ウイリアム・テル」
  名前は知らなくても、こんなスイスの伝説を聞いたことはないだろうか? スイスがオーストリア人によって支配されていた時代、それはウーリ地域で起こった。ハプスブルク家の代官ヘルマン・ゲスラーは、自分たちへのウーリの民の忠誠心をあげるため、広場にポールをたてて帽子をかぶせました。そして広場を通る際にはこの帽子にお辞儀をしろと命じました。もしそれに違反した者には罪を与えるともゲスラーは言いました。人々は罪を恐れ、しかたなくお辞儀をして通りました。しかし、一人これに違反した者がいました。それがウイリアム・テルです。これに怒ったゲスラーは、テルが弓の名手であることを知り、テルの息子の頭にリンゴを置き、リンゴを射抜けば罪を許してやると言いました。テルは迷わず弓を取り、息子に向かって矢を放ちました。見事、矢はリンゴを射抜き、テルは無罪放免……とはいかず、逆にゲスラーを怒らせる結果になりました。一度は捕らえられるものの、テルはすぐさま抜け出して、見事ゲスラーをやっつけました。ゲスラーの悪政から解放されたウーリの民達は喜び、彼を称えました。そして、そのままオーストリアに反乱をおこし、スイスから追い出すことに成功。見事スイスの独立をはたしました。これがスイスの独立記念日の原点であると長年信じられていましたが、これはドイツの作家フリードリヒ・シラーという人物が作った物語、つまりテルは架空の人物であると発覚しました。発覚当初は、落胆の色を隠せなかったスイスの人たちですが、いまだにテル存在を信じている人は多く、その存在を信じてやみません。ウイリアム・テルは、スイスの人たちの心の支えとなって、今もスイスの人たちの心の中で生き続けています。


 

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